私の買い被りか妄想か、実際にどこまでを意図してこの用語が作られたのかは定かでないが、
という言葉は、そのひと言だけでいちどきに複数の状態を指し表すことが出来ているというこの1点で、非常に絶妙な名付けられ方の下に誕生してきたものなのだと言うことが出来る。
まず、この言葉を聞いて想い描かれる状態はと言えば、
「年齢的には大人なのに、精神がそれに伴っていない」
というものになるだろう。年齢がアダルトなだけのチルドレンという訳だ。この用語を作った人も、おそらくはこの状態を主に頭に浮かべていたのではないか。
そして、この言葉は同時に、
「年齢と精神が著しく釣り合わない人は、子ども時代に何らかの理由で大人っぽく振舞わざるを得なかった可能性がある」
ということをも示せているのだ。つまり、アダルトを演じているチルドレンという訳だ。
子ども時代に、大人っぽく振舞わざるを得ないような状況があり、仕方なく演技していた結果、いつまで経っても「子ども」という時期を経過した感覚が得られず、どの時期を振り返ってみても、「子ども」の姿そのままで過ごしたという時期は見当たらず、その為に、
「いい歳なんだから子どもから大人に移行しろ」
と言われても、その移行元たる「子ども」というものがどこにあるのか分からないが故に、大人という移行先へも上手くスライドせず、
「アダルトを演じていたチルドレン」
はそのまま、
「アダルトになれないチルドレン」
へと自然に移っていくのではないか。
そして最後にもうひとつ、
という用語は、その相反するふたつをくっつけることによって、それに該当する人が実は、
「アダルトでもチルドレンでもない」
ということをも示せているのだ。
さきほど、
「アダルトになれないチルドレン」
であるとか、
「アダルトを演じていたチルドレン」
などと説明をしていたのだから、少なくともチルドレンにはなれているではないかと思われるかもしれないが、それは、
「外から見た人にとってはチルドレンだ」
という事実を示しているだけで、渦中にいる人間にとっては、大人と呼ばれるもの、それから子どもと呼ばれるもの、どちらに対してもまるで現実感というものを持てていないというのが正直なところなのだ。つまり皮肉なようだが、名前に、
「アダルト」
も、
「チルドレン」
も含まれているのに、そのふたつともに現実感を持てない人たちが、
であるということなのだと思う。
このように、その外側にいる人たちにも内側にいる人たちにも、なんとか両方に説明がつくように仕組まれ、また、その渦中の人の辿ってきた歩みまでも同時に示せているとは、どこまで考えていたか知らないが(もっとも、こんなことは全くの見当はずれで、私の中だけでのただの妄想かもしれないが)、見事というよりほかないネーミングセンスではなかろうか。