物語を作って、それに乗るというごまかしは出来ない

 『今の時代というのは、皆が共通の物語を見れなくなっている時代だから、物語は自身で形成していかなければならない。人生における意味は自分自身で付与していかなければならない』

という言説に触れると、どうしても、

「う~ん」

という声を出さずにはいられない。

 というのも、瞬間々々は断続的でいて、ひと連なりではなく、ただ無数の現象があるだけで、そこへきて物語というのは、そういう何の連なりもないところを無理やりにつなげて拵えられたもの、つまりは、

「嘘っぱち」

だという意識が強いからである。

 もちろん、「物語という形式」を取る限りそれは常に「嘘っぱち」であるとは言えるだろう。だから、嘘っぱちを承知で、物語を人生に付与して時々、

「何もかもが、ただ何の脈絡もなくあるだけだということを忘れて楽しもう」

と言いたい、ということならば良く分かる。

 良く分かるがただ、それが、

「意味を付与しなければならない。物語を自身で形成しなければならない」

と、あたかもそれが絶対に為されなければならない使命かのように、私の前に立ち上ってくると、

「そんなのは嘘だよ」

と払いたくなるのだ。

 例えば、テーマパークというひとつの嘘を、

「本当であるかのように」

楽しむことは容易だが、それを、

「一切の疑いのない、本当のもの」

だと自身に信じ込ませることは、ほとんど不可能に近い。

 それと同じで、自身の人生を物語的に組み直すことで、そこからひとときの満足を得ることは出来るが、その、後から拵えた物語を、自身にとって大そうな意味を持つもの、私の人生にとって絶対不可欠のものとして捉えることは出来ない。所詮はそんなもの、嘘っぱちだからだ。