力が有り余ってるときに助けられたって良いじゃないか

 『自立ということは、依存を排除することではなく、必要な存在を受けいれ、自分がどれほど依存しているかを自覚し、感謝していることではなかろうか。依存を排して自立を急ぐ人は、自立ではなく孤立になってしまう』(河合隼雄

 

 自らで出来ることは自らでやり、どうにもならない部分は迷いなく人に頼るという「自立」ではなく、人々との関係を全て断ちきり、何でも1人で抱え込もうとする「孤立」を志向していながら、自分では「自立」を目指しているつもりでいた。

 という期間が随分とあったのだが、「自立」と「孤立」の違いを考えさせられるようになってからは、

『これは「自立」ではなくて、「孤立」に向かっていやしないか?』

と考える癖がついたので、いくらか、自分の中の「孤立」志向が強まることを防げてはいる。

 しかし、いまだに自分の中の「孤立」志向というのが根強いなと思ってしまう場面がいくらかある。そのひとつが、

「自分の力が有り余っていて、余裕のあるときに誰かに助けられると、ついイラッとしてしまう」

という瞬間だ。

 これが、

「自分が参ってしまっている、力が無くなっている」

場面であれば、手を差し伸べられたときに、素直に感謝を示せるようになってきているのだが(「孤立」志向がまだまだ根強かった頃は、もう自分でも限界なほどに参っていたとしても、ひとたび助けられれば、「ああ、人に助けられてしまうなんて、なんて俺はダメなやつなんだ」と自分を追い込んでいた)、自分の力が充分に有り余っているときに手を差し伸べられると、いまだに、

「何で助けになんか来るんだよ」

と、口には出さないものの、思ってしまうことがあるのだ。

 しかし別に、力が有り余ってるときに助けてもらったって全く構わないし、

「有難いけど、今は助けてもらわなくても大丈夫ですよ」

と思ったのなら、丁重に援助を断れば良いだけなのだ。イラッとする必要性がどこにもない。

 それなのに、イラッとしてしまう自分がいるということは、自分の中のどこかで、まだ「孤立」志向的考えが抜けきっていないというところがあるのだろう。