「ここのね、非常ボタンを間違って押しちゃった人が昔いたのよ」
「へえ・・・そんなことがあったんですか・・・」
「でね、警備会社の人達が、異常事態だと思って集まってきたとき、その、間違ってボタンを押しちゃった人は何故か笑ってたんだって」
「笑ってたんですか・・・」
「そうなのよ、おかしいでしょ? それで、そうやって間違ってボタンを押したにもかかわらず、笑ってたからっていうんで、その人はクビになっちゃったのよ」
「そうなんですか・・・おかしいですね・・・」
ここで私が、突拍子もないことを言うメリットも必要性もなかったので、とりあえず、
「それはおかしい」
と話を合わせておいたが、本当のところは、非常ボタンを間違って押してしまったにもかかわらず、人がワーッと集まってきたのを見て思わず笑ってしまったその人の気持ちが、良く分かって仕方なかった。そして、そういった状況で思わず笑ってしまうのは良くないことだということは知っているが故に、本心ではなくとも、とりあえず神妙な面持ちをしてみせることができる私は、その人のことを思って、
「素直だなあ・・・」
という感想を抱いていた。
本心では可笑しくて仕方ないというふうに思っていたとしても、怒られて当たり前の状況に置かれていることは確かなのだから、そこはとりあえず神妙な面持ちを浮かべていれば良かったのに、本心そのままに笑ってしまうとは、何と素直な人なのだろうか。
「いやいや、そもそも笑うような状況ではないでしょ」
というツッコミが入るかもしれない。しかし、その人と私の感性が全く同じかは分からないが、想像するにおそらく、
「誰かに大怪我を負わせてしまったとかならまだしも、ただボタン1つ押し間違えてしまっただけなのに、大の大人が血相変えてわらわらと集まってくる光景を見たら、本当は笑っちゃいけないんだけれども、笑えてきて仕方なくなる」
というようなことを、その人は思っていたのではないだろうか。
「ボタン1つでこんなことになる」
という事実は、勿論非常に怖いことでもあるが、反面非常に滑稽でもあるのだ。だから、その人が思わず笑ってしまったのが良く分かるのだ。
それにしても、堂々と笑わなくても良かったのに。一度、会ってみたかった。