以前に、『「好かれて、悪い気がする人はいない」という嘘』の中でも書いたとおり、私は、異性から、友情としてではない好意を向けられると、ある種の恐怖や不快感を覚えてしまいます。
これは、もう既に小学生の頃から始まっている感覚であり、好意を向けてくれる異性や、それを知って色めき立つ周りの友人や親という存在が、全て不快に思えてしまうのです。
もし、こういった心持になるのが私だけではなく、多くの人にとっても当てはまることであったのならば、殊更に悩むこともなかったのですが、どうやら大概の人にとって、好意を向けられることには、多大な喜びが伴っているようだ、ということに気づき、では何故、私はそうした感覚を得ることが出来なかったのか、どこかでそういった感覚を養い損ねたのではないか、ということを考え、悩みました。
きっと、何か異性絡みのことで、決定的に嫌な出来事が、小学生以前の時分にあったのだろう、その為に、好意を向けられることに対して嫌悪感を覚えてしまうようになったのだろうと考えて、記憶を辿ってみるのですが、いくら探しても決定的な出来事は見つかりません。
では、もっと前の、物心がついていない時期に、何か嫌なことがあったのだろう、という所まで考えようとして、私は、記憶を辿るのをやめました。
何故と言うに、記憶を辿って、もし何か決定的な原因にぶち当たったならば、何らかの解決策が得られるかもしれないと思って始めていた作業も、次第に当初の目的を逸脱していき、自分の中で、
「私の、好意を向けられることに対する嫌悪感、恐怖感を生んだのは誰だ」
というように、いわゆる「犯人探し」をするかのような目的に変わっていってしまっていたからです。
そりゃあ、もう自分では辿れないほどの昔のことを誰かに聞いてみたら、何かそういった出来事があったのかもしれませんし、
「ああ、この所為か」
と言えるような何かが確かにあったのかもしれませんが、それを見つけたからといって、私が解決策を何か編み出せるとは思えませんでしたし、きっと私は、その原因を生みだした人を恨んで終わるだけだと思いましたから、もう徒に「犯人探し」みたいなことをするのはやめにしたのです。
もう既に形成されている個人の感覚、感情のことを嘆いても仕方ありません。「愛が分からない」人間なりに、「好意を向けられるのが怖い」人間なりに、道を模索していきたいと思います。