貧乏を相対だけで考えると、よく分からなくなる

 一口に「貧乏」とは言っても、

「他者はこれだけの物を持つ財力があるのに、私には無い」

というように、他者との相対で意識せられる「貧乏」と、

「他者の生活レベル云々ではなく、生活のやりくりが難しく、満足に食えない」

という、絶対的な側面での「貧乏」とがあるように思います。

 勿論、我々人間は、常に他者との関係の中に置かれていますから、「貧乏」というものの相対的評価に一喜一憂すること、また、相対的に見たときに明らかになってくる格差というものの是正を目論むことそれ自体は、必要だとも言えるでしょう。

 ただ、「貧乏」を相対だけで見ていくと、際限がないということは、ひとつ言えると思うのです。下手すると、未来の相対評価における「貧乏人」は、

「私はとても貧乏で、家は一軒家がひとつばかりだし、車は2台しかなくて、別荘も沖縄にひとつしか持てないし、預金は2~3億ばかりしかないのよ」

とでも言いだしかねないんじゃないかと思うのです。

 別に、贅沢を欲するなと言っている訳ではないのです。贅沢な生活はどんどん目指してもらって大いに結構だと思っているのですが、他者との相対だけで「貧乏」を判定していると、実体は既に充分富んでいるのにも関わらず、ある意味でずっと「貧乏」であり続けてしまうということが起こります。上には上がいますから。

 質素な暮らしをしろということを訴えるつもりもないし、そういう暮らしが一番素晴らしいとも思いませんが、絶対的な評価としての「貧乏」を、少し見つめる必要があるのではないかということをこの頃思います。他者との相対ではなく、絶対的な意味における「貧乏」とは何か。このことを見つめないと、我々は、他者と比較して一生の間ずっと、

「足りない・・・足りない・・・」

とつぶやき続けなければなりません。

 では果たして、他者との比較なしにどれだけの生活が出来ていれば、絶対的に、

「貧乏ではない」

と言えるのでしょうか。これも、個々人の感覚が異なるので難しいところですが、私は、

「寝るための家があり、しっかりとメシが食えていて、ある程度の娯楽を嗜める程度に金銭的余裕がある」

という状況が整えば、それは「貧乏ではない」と評して差し支えないのではないかというように考えています。

 この私的定義に照らすと、一体日本人で、どのくらいの人々が、絶対的に「貧乏」だと言えるでしょうか。

 何度も言うようですが、贅沢を欲することは、それはそれで良いことです。ただ、相対だけで「貧乏」を規定していたら、いつまでもいつまでも際限がありませんから、絶対的な意味での「貧乏」という基準を各々が設けて、そこが最低限クリアできていれば、とりあえずは良しとする気持ちを持つことも、ひとつ大事なことのような気がしています。