深いところで信じていない

 前に、そのとき不機嫌な心持だろうが何だろうが、人と応対する時は、やけにしっかりしてしまい、それは自分の気が小さいからだということを書いたのですが、確かに、気が小さい所為もあるけれども、

「深いところで、人を信じていない」

ということも、やけにしっかり対応してしまう、ひとつの要因だなということをこの頃考えています。

 信じていないと言っても勿論、家族であるとか親しい友人であるとか、総合的に見れば、圧倒的に信頼しています。いつ裏切られるんだろうかという恐怖に怯えているようなこともありません。また、何も家族や友人でなくとも、顔見知り程度の知人や、街行く見知らぬ人だって、大まかに言えば信用しています。そうでなければ、外を歩くことさえ怖くてしょうがないですから。

 しかし、そういうことではなく、もっと底の底の深いところでは、私は、どんなに親しい人々であっても、信じていないところがあります。どういうように信じていないかと言うと、それは、

「どうせいつかは裏切られる」

であるとか、

「人間と言うのは汚い、醜いものだ。信じられん」

というような形の不信ではなく、ただただ、

「どんなに親しかろうと、血が繋がっていようと、結局は他人だ」

という考えに基づき、

「自分ではない異質な存在は、全面的には信じられない」

という結論を導き出すような形で、他人を信じていないのです。

 「他人は自分ではない」

という言い回しは、文字に起こしてみれば何のことはない、至極当たり前の言い回しなのですが、この言葉の持つ意味が、私にとっては非常に重いのです。

 いかに経験を積んで、何もかもを知った気になっても、結局他人の感情や思いには、直に触れることは出来ない。同じ皮膚感覚で、全く同じ感情を一緒に体感することは出来ない。

「きっとこう感じているのだろうなあ・・・」

という風に、思いを馳せることしか出来ない訳です。ということは、私の感情や思いに対しても、他者は、

「きっとこうだろう」

と、思いを馳せることしか出来ない。そんな、私とは絶望的な距離感にいる他者を、深いところで信じられるかと言えば、それは無理な話なのです。

 と、こうして一大告白かのように書いてきましたが、私がいちいち告白するまでもなく、家族や親しい友人などは、私が、

「深いところで信じていない」

ことに、とっくに気づいていると思います。何故なら、冒頭の内容に繋がりますが、普段あまりにも不機嫌な態度を表に出さないで、時々思い出したように暴発してしまう私の行動を見ることによって、

「ああ、本当に思っていることは、なるべく表に出さないようにしているのだな」

ということが、これでもかという程分かるからです。また、不機嫌を不機嫌のまま出してくれるほどの信頼は得ていないんだということが、それによってはっきり伝わってしまうからです。

 反対に、深いところでも他者を信じている人々は、そのとき不機嫌ならば、素直に不機嫌な態度をそのまま出せるのだと思います。

「この人には、不機嫌なとき、不機嫌なまま接しても大丈夫だろう」

という全面的な相手への信頼があるような気がするのです。

 繰り返すようですが、私は、他者を深く信じられないばっかりに、いくら親しい友人や家族と接する時でも、

「不機嫌な態度を見せたら、いったい何と言われてしまうだろう」

ということを、いちいち考えずにはいられないのです。