観る前に感情を規定しないでほしい

 テレビのCMで、

「泣ける映画」

であるとか、

「抱腹絶倒の映画」

といったような宣伝文句を耳にすることもあるかと思います。

 私は、この類の映画の宣伝の仕方が非常に嫌いでありまして、何故というに、観る前に感情を規定されたような心持になるからなんです。

「泣ける映画」

だと謳われていれば、

「ああ、きっとどこかで泣く場面があり、またそういうように持っていく構成なのだろうなあ・・・」

ということを考えてしまい、本当は、「泣ける」以外の感情の揺れ動きも、映画を観て起こってきたかもしれないのに、事前に、

「泣ける」

と銘打たれたが為に、感情がそこばっかりに集まってきてしまって、面白くないのです。

 それに、非常にねじ曲がった考えだとは承知の上ですが、

「泣ける」

「笑える」

あるいは、

「笑えて泣ける」

と謳われても、

「泣くか笑うかは俺が決めることだよ。あんたが決めんなよ。」

と思ってしまいます。

 また、感情というのは、

「泣く」

「笑う」

というように、言葉の枠にキッカリはまっているものではなくて、もっと人間の中で、ゆらゆらと複雑に絡み合い、漂っているものだと思うのです。それを、宣伝文句を使って、感情を言葉の枠に組み込んで、観る側が感じる思いを規定してしまっては、せっかく映画を観て、説明不可能なほど入り組んで自分の中に湧きあがってきた種々の感情が抑えられ、

「泣けた」

だけに終始してしまい、どちらにとってもつまらない結果にしかならないのではないかと思うんです。

 しかし、現にそういった文句が使いまわされるということは、事前に感じるべき感情を規定してほしいという人が多いのかもしれません。私は、それでは想像力が削がれてしまい、嫌なのですが・・・。

 ではそんなに文句を言うなら、どうやってコメディを、悲劇を宣伝するんだと言われるかもしれません。私の考えでは、CM用に編集した長さの映像を流すとともに、ネタばれしない程度にあらすじをナレーションすればそれで充分だと思っています。

「それじゃ、客が入んないよ」

と言われたら、そうなのかもしれません・・・。事前に感情を規定される宣伝方法が不愉快ではない人が多ければそれは仕方のないことです。