「私が全部悪いのね」と言う人は、微塵もそうは思っていない

 承認してほしいという気持ちがねじ曲がった結果として、相手に銃を突きつけるような形で向けられる言葉のことを、いわゆる「銃口ワード」と呼びます。銃を突きつけられたような言葉というのはつまり、ただ一つの返答以外は許さないような言葉のことを言います。

 例えば、誰かしらに、

「かわいい」

と言ってもらいたい。しかし余程かわいくなければ、そう簡単に言ってもらえるものではない。そこで否定形を相手に投げかける。

「私なんてどうせかわいくないよね・・・」

と。この言葉を突きつけられた相手は、余程不遠慮でなければ、

「そんなことないよ」

と言わざるを得ない。気を遣って言っている訳ですね。ただここで、

「かわいくない」

「そんなことない」

という二重の否定が起きていますから、ねじ曲がった形ではありますが一応、「かわいい」という承認を、

「私なんてどうせかわいくないよね」

と投げかけた側が得られる訳です。このような、相手に気を遣わせ、ある答えを返すことしか許さない言葉のことを「銃口ワード」と呼ぶのです。

 この類のもので私が一番嫌いなのは、

「私が全部悪いのね」

という言葉です。これは誰に言われるかというと、親なんですが、もう既に説明した通り、

「私が全部悪いのね」

と銃口を突き付けられたら、

「そんなことない」

と気を遣って返すより他ないのです。そして親は、私がそう言うしかないことを意識的か無意識的にか知っていて、その返答が来るのを分かった上で使っているから、タチが悪いのです。

「全部悪い」

「そんなことない」

で二重否定を起こし、他者である私に、自己の正当性を間接的に認めさせているのです。「全部悪い」というのはフリでしかなく、本当はそんなことを微塵も思っておらず、「私は悪くない」と認めさせたくて仕方ないのです。

 この「銃口ワード」を親に使われるのは一度や二度ではありません。言い合いになるたび毎回使ってきますから、これに屈してはいけないと、

「そんなことない」

と言うことをなんとか避けて頑張るのですが、こうして抗っていると、さらにキツい「銃口ワード」を用意されます。曰く、

「私が結婚したのも、何もかも全て間違いだった。全部私が悪い。」

と。もうお分かりかと思いますが、私がやってきたことは間違っていないし、悪くないということを、はっきりと私に承認させるための、ただのフリであって、本当に悪いとは、親は微塵も思っていません。

 これを言われると、さすがに私は抗うのをやめて、

「そんなことない」

と言わざるを得ません。ここまで来るともう、親に気を遣ってという理由ではありません。何故なら、結婚が間違っていたというのはつまり、私自身が生まれてきたことの否定ですから、

「そんなことない」

と言わなければ、私は私自身で自分の生を否定しなければならない訳です。しかし、当たり前ですがそんなことは出来ませんでした。

 自分が自分の生を否定してしまったら、もう死ぬしかない訳です。そんなことは出来ないと分かっていながら、

「そんなことない」

というより他ないことを知っていながら、思ってもいないのに、

「私が全部悪い」

という「銃口ワード」をかざす人間を、私は許せません。