断片

含み笑いもする人

この、大きなエレベーターに、私だけが唯ひとり乗っているなどということはそうそうない。しかし、その瞬間に見事に潜り込み、含み笑いする人はやってくる。 「あっ・・・」 そんなに怯えた顔で迎えないで、と言わんばかり、私の目をしかと見据えている。そ…

去る

「お久しぶり」 おどけたつもりで丁寧な挨拶を施すと、その人は、なにか私の顔に焦点が合わせられないというような表情をしていた。 ほら、あのときの、あすこに行ったときは、あんなことがありましたね、などと話を並べると、その人は、 「ああ・・・」 と…

活気が満ちる前後

遅刻することがひとつの癖のようになっていたのが部活動に励んでいたころのことだから、多分、これから書かれる記憶というのは、その当時稀にしか起こらなかったこと、むしろ稀だからこそ記憶に残ったことなのかもしれない。 何かの手違いか、他に用事があっ…

含み笑いする人

誰だかは知らない。初めて会ったのは階段だった。 「おはようございます」 挨拶を交わすと、その人はしばらく含み笑いをしていた。馬鹿にしているようでも、おかしさをこらえているようでもなかった。 その後も何度か、その人とは階段で会った。含み笑いの前…

豆腐屋

1番古い記憶は何か。私の頭にある断片的な記憶の数々、それを次から次へと口に出して、傍で聞いている親に順序を確認してもらったところ、それはおそらく、というより確実に、 「豆腐屋」 の記憶であるという結論に至った。 3歳ごろ、祖母に連れられて行っ…

上から見ると、よく分かる

放課後、本来なら参加しているはずの部活を、教室の窓から眺めていた。今日の面談は進路に関する事らしい。同席する予定の親を待つ間、先生とともに教室で時間を潰す。 「早く戻りたいか?」 「そうですね・・・」 私の返答に対し、何とも言えない笑みを湛え…

鏡の前に立つ。よくよく自身の顔を見つめてみると、普段とは少し様子の違っていることが分かる。確かに私の顔には違いないのだが、それでもハッキリと、閉じている顔貌との類似を示す方向へと変化しているのが窺える。 だが、別段驚かなかった。こういうこと…

点滅

眠気も大してひどくなく、半ば休憩するような心持ちで布団に入った。枕元にあったラジオの電源を入れ、チャンネルを合わす。今日は、やけにパーソナリティの声が遠く、話も途切れ途切れにしか伝わってこない。 「眠くないとはいえ、億劫だなあ・・・」 むろ…

今も気づいていない

同級生と肩を抱き合い、オンオン泣きながら別れを惜しむ人たちを横目に、証書の入った筒を慰みにいじりながら、なかなか終わらない卒業式の時間を潰していた。 卒業式はこのときが初めてではなかったから、この日を境に、ここに集合している人たちがまた一堂…

転校生のA君

「ほら見てこのカード、良いでしょ?」 「わあ・・・良いなあ・・・」 小学校の授業を終えたあと、気づいたときにはA君の家でふたりで遊んでいた。 きっと、連れ去られた訳ではないのだろうから、どちらかが、 「遊ぼう」 と言って誘ったのだろう。だが私の…

花の群がりに、ひとつの美しい種が見留められる。 「あれを摘んで、私のもとへ置いておいたらどんなに良いだろうか」 と摘まんだその瞬間、花がまとっていた美しさが、ぱらぱらと剥がれ落ちていく。 驚いて、元あった場所へスッと手を近づけ、花を紛れ込まし…

振り子の切り絵師

「このように、いつも身体を左右に揺らしながら切る癖をつけていたら、それが抜けなくなってしまいました」 温泉施設に隣接する、宴会場のようなところで起きた一幕であった。その挙動の怪しさから、幼な心にも、 「あっ、あまり近づいてはいけない人が来た…

それでもう充分なのかもしれない

別に、忘れてしまった訳ではないが、ただなんとなく頭の片隅にあるだけで、しばらくの間、ボンヤリとしか意識に浮かんでこなかった人がいる。 そんな人をあるとき、くっきりと思い出した。細かい、他愛のないかつての日常の風景が、明確にその人とともに思い…

その男は、彼のうちにぽっかりと空いている穴から拡がっていく光景を、とても豊かだと捉える事は出来なかった。そんなの嘘だ、第一所詮は君の中だけに拡がっている穴なのであって、そこでどんな豊かさを展開していようが、地球を見ろ、宇宙を見ろ、それに比…

大きな壺のなかに、渦が巻いている。円を描いた中心に、球状の物体をポトリと落としてみる。 渦に、何の変化も起きたようには思われない。ただ、しばらく見ていると、心なしか渦巻く速度が少しだけ上がったように思われてくる。 球状の物体は何処へ行ったの…

キャンプ場にて

「じゃ、お金払ってくるから、ちょっとここで待ってて」 言い残すと親は足早に、受付のあるロッジへと向かっていった。 ぽつんと開けた広場のような所に取り残された私は、同じような年頃の子どもたちが集まって、近くでバレーボールをやっているのをそこに…

階段

コツ、コツと、一定のリズムで階段を上っている。しかし、一体いつからこの階段を上り始めたのだろう。後ろを振り向いても、ボンヤリとした暗がりが広がっているだけで、何も見えない。ばっと前を見返してみても、直前の10段ほどしか見えておらず、その先…

遊ぶ

淡々と足を進めることに飽きた私は、近くの公園のベンチに腰かけていた。この季節にしては少し暑いぐらいの昼下がりに、小さな子どもが二、三人集まって遊んでいる。 見ていても、ルールはよく分からない。ただ目一杯に、駈けたりはしゃいだりして何かしらの…

小学生的なるものへの憧れ

『○○は、学校が終わると一目散に家へと向かって駆け出し、玄関へカバンを投げ出したかと思うと、そのまま友達の待つ公園へと、勢いよくまた飛び出して行った』 今こういった文面を見れば、 「これは小説上の誇張表現かな?」 という想像を巡らすことも出来る…

楽しいか楽しくないかはそんなに気にならない

中学生の時のこと、隣の席の女性が私に、 「○○君って、生きていて楽しい?」 と訊いてきたことがあった。私が普段からあまり感情を表に出さないから、ふとそういう疑問を持ったのだろう。たしか、そのときは、 「うん・・・まあ・・・」 というような曖昧な…

なだらかな快楽

それは果たして夢であった。引き寄せるともなく寄り添うひとりの女性に、私は、さしたる違和も緊張も、また不快も抱いてはいなかった。 しばらくそのままで過ぎたであろうか。ただ寄り添っていただけなはずの私の身を、なだらかな快楽が襲い始めた。 日頃の…

監督、今日ボクを、試合に出させてください!

監督の、(おそらく)突然の思いつきだった。 『よし、これからは試合前に俺のところへ来て、「監督、今日の試合に出させてください!」と頼みに来ない奴は、試合に出さないからな』 周りのチームメイトは皆、 『なんだなんだ? 急に何事だ?』 というような…

すくうフリした

『よりによって、休日なのに何で「自然ふれあい体験」に行かなきゃならないんだ! 絶対に虫などを捕まえさせられるに決まってる! イヤだなあ・・・。』 ある土曜日の朝、私がまだ小学校低学年だった頃の話である。その頃、土曜日と言えば、普段は少年野球チ…

横断歩道

平日の昼前、車を運転している。交差点の所にさしかかると、信号が赤に変わったため、一旦停車する。車、人、ともに往来は激しくない。 信号が青に変わった。左へとカーブを切り、横断歩道を横切ろうとする。しかし、向こうから、一人の男性がこちらへ向かっ…

戻った方が良いぞ

荷物良し。財布も良し。上着も良・・・、これじゃあ、ちょっと暑いだろうか。ベランダに出て気温を確かめよう。ちょうど、天気のことも気になっていたところだし。 ・・・うん、上着はこれで大丈夫。雨も降っていない。よし、出かけよう。 (雨の匂いがする…

役割で制限される遊び

「校庭で遊ぼうぜ!」 「良いね! サッカーやろうぜ!」 小学校低学年の時分の中休み、校庭に集まって皆でサッカーをするのが、クラスの男子達のお決まりのようなものであった。初めは少人数でやっていたのが、時間が経つにつれ、次第に、 「(遊びに)入れ…

おじいさん

最近は、徐々にその意識が薄れてきてはいるが、かつては、 「何らかの条件でもって他人に認められる」 ということに、矢鱈にこだわろうとする意識が物凄く強かった。 だから、大学に合格したとき、 「良い報告が出来る。喜んでもらえる」 と思って、祖父の許…