断片

<827>「汽車が見える日へ」

たれかしらかざす声の下(シタ)へひとも知れず潜りこんでいる、その、軽やかな立ち方。 あたしは何に於いて・・・。 ひとくちのパン。記憶のなかに浮かぶ船。照明は等しく揺れている。 電車のアナウンス。風景は行き先を匂う。語らいのなかの唸りをゆく。ひ…

<805>「断片の家のために、地面は笑う」

ついに小ぶりの家は片付けられた。おどろおどろしい、色を巡っての噂や、それは妄想? ついにアけられることもなく。こちらへ迫ってくる、壁か、何か。あたたかいヒ、が隙間から漏れる。 いらっしゃい 私の家はここよ、小ぶりの家は今はもう・・・。あの、窪…

<790>「好悪の芽」

何でこんなことを書きだすのかと言えば、あなたの一番遠くの遠く、その好きの、得意の芽を見つけて掴んでおくことが大事だという話を素直に聞いたからで、素直に聞いたのは随分前で、その時に思い出し済みなのだけれども、今、その時分の辺りのことをくっき…

<639>「一人の男は揺れる<2>」

つまり、区切り方の問題だ。あの男は存在する。ちょうど、家の場所、というか区切りを、2メートルほど横にずらしてしまうみたいな。あなたが思っていたそれは、家ではありませんよ、などと言ってやる。そうして壁の外になる、壁の外にいる。あはは、見えな…

<638>「一人の男は揺れる」

「あらやだ」 歩く、歩くと夫人の前に、これは、なにか? その男は不思議な立ち姿で、微妙に揺らいでいる。 「はて、この人は生きているのかしら?」 当然とは言えない、疑問ようのもの。しかし、その言葉を発させる、なにか。 (わたくしは、もはや生きてい…

<626>「一昨日からの汗」

「いくらでもない、いくらでもない」 先回りすると男はそう言った。おや、俺が教えてもらっていたことのなかでもこれは特別に分からないのではないか。例えば、私には赤ん坊の経験がないんです、などという言葉も、一体どう通過させたらいいか。惑いのなかで…

<176>「視線の無時間性」

その日、私は歌をつけていた。ゲームに付随する応援歌のようなものを。いや、歌は友達がつけていたのかもしれない。可笑しくなって続いた。その楽しみに夢中になる一方、何か幼過ぎるような、似合わないような感覚に陥り、事実そのときは幼かったのだが、今…

<9>「彼(9)」

絵を見ることが私の仕事だと言ったら、大抵の人間は納得しないだろう。見るだけで何の仕事になるものか、そんなもんで食っていける訳がないだろう。しかし、この仕事で食っていけるかどうかは関係なかった。稼ぎを他で持っているからといって、これが一番の…

<8>「彼(8)」

形式を見つけて、それに沿って歩き出す。しばらくこのまま歩いていればいいんだ、どこまででも歩いて行けそうな気がする。赤色の標示灯が、道の両端に置かれ、一定の間隔をあけながら、遥か先の方まで連なっている。 テンポよく歩き続けていると、だんだんに…

<7>「彼(7)」

例えば、得られずにいることを望んで、はあ、と溜息すらついていたにもかかわらず、実際にそういう場面に立ち会えると、何とも思わない、いや、これではないんだと思うことがあるだろう。では一体あのとき溜息までついていたのは何だったのだと思う? その落…

<6>「彼(6)」

為すべきことを見出したような思いに引っ張られ、キラキラと瞳が輝き出すのも不自然だが、そんなものはないと頑張って、輝きを殺そう殺そうと努めるのもまた不自然ではある。では、そのどちらにも傾かないのが自然なのか、自然と呼べるか否か、そんなことは…

<5>「彼(5)」

不遜、あまりにも不遜で傲慢なので、褒められることにもけなされることにも我慢ならない。誰もが羨む好機を見送って放り投げておいて、後悔の念も起こさないと来ている(激しく後悔している様子があれば、まだ取っ組みようがあった)。こういう人物が他人を…

<4>「彼(4)」

彼にもまだ外側を見ていた時期があった。それはごくごく最初期の、短い時間で、ご褒美のデザートが間違って食前に来てしまったような感覚だった。しかし、私は普通の食事を求めている。おまんまとおみおつけと。それで良かったのだ。私は自ら勧んで絵に近づ…

<3>「彼(3)」

隣席の女性は、延々と話を繰り広げている。時々同意を求められるから、うん、うんと相槌を打っていた。しかし、あれだけ喋られて、何の話も憶えていないというのは不思議なことだ。隣席の女性が話している間(数学の授業前だった)、方向音痴な友人のことを…

<2>「彼(2)」

翌日から早速、絵の前に立った。鏡の横にかけておいたのだ。思った通り、どうやら鏡に映る自分より、描かれている自分の方が本当らしかった。これは、俺だけで見ているのは勿体ない。友達にも見せてやらなければと思い、友人を2、3人招待した。絵を見ると…

目の焦点が定まっていない。一体どこを見ているのか。見つめているつもりで、どこか違うところを覗いている。精悍な顔とは程遠く、疲れた頬が、だらりと垂れ下がっている。痩せている、というよりは、痩せさせられているという感じだ。顔が良くないという主…

曇り

重低音が、上下に揺すぶるように部屋を撫ぜ、耳鳴りが全体に拡がっていくような悪夢ではどうやらないことを確認し、虚ろな目を開いた。いつの間にか反対向きに寝ていた。 大方、飛行機の音だろうと思ったが、それにしては停滞している、歩みが遅い。どちらか…

集結

まだ、幾つと数えるのも早いような子どもを連れて、親たちがひとところに集まっていた。無関心だったり、他のことに夢中だったりして一向こちらを見る素振りのない子らをよそに、満面の笑みを作って、大人たちがこちらに向いていた。作った割にはぎこちなさ…

穴 (2)

不自然な暗さかもしれなかった。眼の玉を失い、真暗が後頭部の辺りまで通過している感覚。意識も雑念も、存在を根こそぎ奪われ、位置という位置を失った。 意識は、光なのではないか。場所の知覚。それがなければ、意識はないのでは・・・。より確かなはずの…

突き指

日常茶飯の出来事だったような気がした。突き指だ。何かに軽く手をぶっつけて、突然思い出したのだが、もう突き指はしなかった。こういう瞬間がたくさんあったのでは、という記憶だけが甦った。不注意だったのだろうか。勢い余っていたのだろうか。 ドッジボ…

石 ねりけし 手

チョークのように、白い線を地面に残していくのが面白くて、石を拾ってはガリガリと何かを描きつけていたときのことを思い出した。いや、絵だったか? それだけではなくて、文字も書いていた。主に文字だったかもしれない。地面のデコボコにいちいち細かに引…

溶け出していく

ある人の、若かりし頃の日記と、ある人の、若かりし頃の映像が重なる。その重なりがもたらす風景は、非常に整然としている。パチ、パチ、パチと、決まるべきところできちんと決まっている。分かりやすい、気持ちいい。しかし、どうだろう。何となく固い、硬…

無邪気な媚態

ともすれば、何の興をもそそらないほどに整っていたあの人は、自身の美貌を快く迎え入れていた。己の力に拠らないところのものに、少しも後ろめたさを感じていなかった。 あの人には、自身の美貌によって、人を試すようなところがあった。 「一体全体生涯の…

葬式

火葬されると、遺体は空中にふわりと浮き上がる、という話を思い出し、じゃあ、今あの人もちょうど、まるですっくと立ち上がったかのように宙へ浮き上がっているところだろうか、と考えた。燃え盛る火の中、閉じられた瞳が、やさしく微笑むようにこちらを見…

一区画

歩を進めていると、俄かに前方の景色が華やぎ出した。駅がもう近いのだろう。高架線を支えるように、歓楽街から一区画だけ切り取って持ってきたような雑居ビルが整列している。 その切り貼りが、一帯を脅かしもせず、空っぽにもしてしまわず、見事な興奮を辺…

夕暮れの延長

電球の光がやけに濃くなるのを感じ、あんまり夢中になって長いことここに座っていたことに思いを致す。夕日は、急くようにその姿を消そうと努め、暖かい色だけが周囲を強く照らそうとしているように思われた。 もうカーテンを引いてしまおうと考え、明りも、…

佇む人

部屋の空気がムッとする。左半分を網戸にして換気を試みようと窓に近づくと、誰かが窓の外にしゃがみこんでいるのが見えた。不思議と恐怖は感じられず、むしろ進んで窓を開け、その人の横で同じようにしゃがみこんでみようとした。 「おじさん」 「えっ?」 …

トロッコ

トロッコに乗り込むと、ガタピシガタピシ揺れながら、暗いトンネルの中へと進んでいく。 「うわあ・・・どこに行くんだろう? すごいねえ!」 周りの人に話しかけたつもりだったが、ひとりだけでは勿体ないと思われるスペースに、在るのはただ私ひとりだった…

電車

電車で、片道1時間ぐらいかけて美術館に行くつもりだったが、7人掛けの座席の端っこに腰掛けたときには、もうその意欲を失っていた。 まあ、そのまま乗っていれば、そのうち行く気を取り戻すかもしれないし、嫌ならそのまま引き返せばいいか、特に何かの予…

カレンダー

部屋の隅っこに、わりかし大きなカレンダーが懸かっている。カレンダーの役目を果たしているのは下半分だけで、上半分にはどこかの風景写真が大胆に印刷されている。 どこか外国の、鉄道が通う郊外の風景のようだ。長閑さを直に耳元へと響かしてくる風景に、…