<2335>「お前は言語の弾みのなかで」

 お前は言語の弾みのなかで身体を反復する

 オマエハゲンゴノハズミノナカデカラダヲハンプクスル

 (オマエハゲンゴノハズミノナカデカラダヲハンプクスル)

 さらだ、

 さら、

 さらなんだ、、

 ししょう、相、

 その響き、、

 私が渡す一量の、、

 そのあいま、

 なにから出た、

 身体から出た、、

 私のなかの相容れない血が、

 血が、出る、、

 お前は弾みのなかに棲む、

 平気で、潜む、、

 平気で、声をする、、

 お前はこの心的な揺れのなかで自身を果たそうとする、

 ああ、

 快がある、

 悪魔がある、

 揺らぎがある、

 日々がある、

 生がある

 種が生まれる・・・

<2334>「爆発物と土」

 彼方から水が出る、、

 全く無音の姿で、

 これは、出るより仕方がない、、

 私は、その勢いを見つめて、

 身体をそこにさらす、、

 なにか、

 粒という粒が、立ってきて、、

 ここでザラザラとする、

 私は、そういった回転のなかで生き、、

 時節に、

 静かに手をつける、

 そんな場所にいる、、

 そんな姿にいる、、

 

 身体が固まって、

 あ、これは、時間の外であると思う、

 そんな姿がある、

 私はそのさなかにいる、、

 様々な時刻を見、

 私は、浮き上がる、、

 身体の中の映像、

 私は、

 生まれてから浮き上がり続ける、、

 世界はかたくなる、

 もう、

 爆発寸前のように、、

 あなたの爪先が立てる音、、

 私は鎮まり、

 もう、ほとんど砕け散ったあとの、

 土地を踊る、、

 これは世界であり、

 これはあなただ、

 あなたは土のカケラであり、

 そのリズムだ、

 その集合だ、

 その集合可能性だ、、

 次々に乱れる、

 その肌の出来事だ、

 

 私は、土に居て、、

 この日付を想う、

 なにがしかの流れを知る、、

 もののたくみさ、、

 ものの沈黙のなかの、、

 脈の巡りへと還る、

 私は挟まっていて、、

 今という呼吸のなかで、

 時刻に変わりえる場所、、

 そのそれぞれはそれぞれで、

 知りながら、

 身体を果たし、、

 ものがかわく場所、、

 そこにひたりと沈黙して棲んでいる、、

 私は身体のために、

 この呼吸を感じると、、

 徐々に溶けていこうと思えるのだ・・・

<2333>「未来時から声、複数時へ」

 時間を探る、、

 それは未来時に向けて、

 何故なら、

 分からないもの、

 そういうもののまとまりに、

 あなたが気がつくからであって、、

 私は知っているからであって、

 あなたは駆けてくる、、

 あなたは繋がるのであって、、

 そうか、

 これはどこからもくる、、

 音がする、

 全く関わりのないと、

 勝手に思っているものから、声がする、

 これは未来時だ、、

 

 あたしはそれを受けて、生きている、、

 身体というのはいくつ含むのか、

 まったく想像もつかない、と思いながら、、

 この場所に紛れて、、

 なんだか遠いところからの声の姿らしく、、

 それにまじる、

 まじって生まれる、、

 生まれた肌の中に、

 全て未来時は含まれた、、

 なんということだろう、

 私は広い、、

 私は時刻のなかへひらく、、

 ものもなにか弾力性だ、

 力ばかりある、、

 力ばかりある、

 あたしは隅々までそれを感じ、、

 眺めた先へ入ることにし、

 時間をそのまま感じていたので、、

 少々振ることにした、、

 そして遠くなる、、

 遠くなったところへ向けて、

 次から次へ、声を当てていく人、、

 人のなかのもの、

 

 いやなに、

 その物事からはすっと先へ出て、、

 あなたが語ること、、

 私は静かに皮を剥いだ、

 そうすることで、時間を確かめた、、

 あたしは一緒にいてと言うのだろうか、、

 それからどこかのタイミングで、

 もう帰ってほしいと思い始めるのだろうか、

 こんな線の絡み合いのところに居て、、

 はたしてこれはなにものなのだろうか、

 私には分からない、、

 きっとここに、全て入り、

 全て一度触ることができる、ということは、、

 それだけで浮上のきっかけになる、、

 頼れる身体になる、、

 私は平気で複数時を来ていた・・・

<2332>「線と体力」

 あなたは棲んでいる、、

 ここが粒とも知らず、

 含まれて、

 一度ここが起動して、

 繋がっても、、

 ものはどの風景に対し、、

 この言葉を持っているのか、

 私は気がつき、、

 まるで、

 身体のひとつひとつが信号であるかのように、

 考えはじめた、

 

 私はその点滅のなかを、

 行ったり来たりする、

 それにしても、

 特別なものを置きますね、、

 私はこれを呼吸するということだろうか、、

 身体はなかに挟まり、

 ひとつの熱を持っていく、、

 あ、

 あたりまえの場所だ、、

 あたりまえのその場所に来て、

 私は流れている、、

 ものがそれぞれのなかで生え、、

 私は徐々に、

 その姿のなかへと入っていく、

 あ、

 一緒になって生まれる、、

 身体を挟ませて、

 長く、その時刻に生まれ、、

 私はどうにかその先を見ようとする、

 なにだ、

 なにがきこえていた、、

 身体のなかになにが、

 あ、

 体力のあたる場所、、

 もののすぐ増える場所、

 揺らぐ場所、、

 私は様々な方向にのびて、、

 身体をつなぐ、、

 身体が、

 普通のヒより、のびている、、

 

 私は声を知っていて、、

 その線の上で踊り、

 あたしの前には物事の、、

 小さな道があり、

 それはそれは慎重に、

 ほぐしていく、、

 身体のなかに混ぜていく、

 合わせていく、、

 ああ、

 また平気に始まって、

 ここの気分のなかで、、

 いちどきに回転する、

 その気分とは何、身体とは何・・・

<2331>「時間が円であるということがわかると、・・・?」

 鎌田茂雄さんの『華厳の思想』を読んでいる。

bookmeter.com

 すいすい読んでいこうと思っていたのだが、今日のこの、第一章の4がとてつもなく、前に進めなく、しばらく放心してしまった。

 

 ちょっと辿れるか分からないが、整理してみよう。

 

 まず、五感が便利に過ぎて、頼り過ぎるので、修行によって、声なき声を聴く感覚を養っていくんだという話が出て来る。

 それには意志の集中。それから無心が必要となる。

 前者の方面の行が発達するとそれは浄土教になり、後者の方面が発達すればそれは禅になっていくんだと。

 浄土教は分からないですが、禅に関してはそんな感じですよね。

 

 それから臨済録の話に絡んで、

『仏とは何か、それは自分自身のなかにある魂の内奥の声(光明)だということに彼は気がついた』p82

とある。

 さきほどの修行のテーマと重なる訳ですね。内側にまず声があるんだと言う訳です。

 

 それから次のページでは、内側の声を聴いた、その記憶があること、それが修行へと向かわせる、つまり一度聴いたものに再び辿り着こうという運動として修行があると捉えられている。

 

 それでp84からは、他力に関わる話とかが出て来ます。親鸞さんとかであるやつですね。

 仏を求めて悪戦苦闘するのは自力だというわけです。そうではなくてふっと無限の光の世界に包まれていることを知る、そのとき思わず合掌させられる。それが他力なんだと。

 他力ってなんだ、人任せみたいなことか、と考えていたんだけど全然違うんですね。

 

 自分から救いを求めるとか悟るとかいうのはいずれどこかの地点で中断させられざるを得ない。なぜならそれは自身の欲望の延長だからというわけです。

 そうじゃなくてその中断の先に、仏の方からこちらへ向かってくるんだと。

 

 これは大分他力というものが分かりやすくなりました。

 

 それでp86からはすごいですよ。いわゆる極小のもののなかに全てを見るってことなんですが。

 その例えで出て来るのが読書メーターの方で引用した米一粒の話なんです。

 これがすごいのは、人間と自然の諸々の営みの過程のなかに、あるいは終着点として、米一粒が位置しているよ、という話ではない、というか話だけではないからなんです。

 米一粒のなかに、様々な要素が、全て入っている、現に今ここにそれが全て入っているという世界観なんです。これはすごいですね。

 つまり一粒のなかに時間や空間が無限に展開されていると考えるということです。

 

 p88からは数理哲学の話がでます。つまり一があると。でそこから二、三、四と進んでいきますよね。でもそれは直線的に並ぶというよりは、一のなかに全部があり、無限まで含めて全部があり、それがゆえにそこから数字が展開されるのだというんです。これは何でしょうか。

 

 p89からは正法眼蔵です。道元さんですね。

『山は山なり。山は山に非ず。山は山なり』

と。

 これをどう読むでしょうか。鎌田さんはこう言います。

『初めの「山は」の山はいま自分の目の前にある山で、つぎの「山なり」といったときの山は説明であって、現実の山ではなく嘘の山である。そこで道元は、いま山といったのはそれは嘘の世界だというので、「山は山に非ず」、ここで山といったのは真実の世界ではなく、概念的世界にすぎない。それでもう一回「山は山なり」といい、ふたたび初めの目の前の山を見ようとする、道元にとっては、目前の山だけが具体的現実なのである。』

と。どうでしょうか。

 

 今目の前にあるものを山と呼んでみる。しかしそれは説明であって目の前に存在しているものとは関係がない。説明されえない山でないこれが、これなのだ、と言うんです。とんでもないですね。具体的現実と言語意識のこの踊り。

 

 道元さんにはこの生きた具体的な現実だけが関心事だったというのです。

 

 最後p90に、タイトルにもある、

「時間が円であるということがわかると、」

という文がぽーんと出て来る。これは何ですか。

「時間は直線と考えてしまう」

時間は直線ではなく、円だというのですが、この円はなんでしょうか。

私がすっぽり収まる器のように考えたらいいのでしょうか。

それともここで無限に回転しているものと考えたらいいのでしょうか。

 

 過去→現在→未来

ではなく(直線的)、

 今ー(断絶)ー今ー(断絶)ー今

だというのです。線がない。切れている。

 これは、円というのとどう繋がりますか。

  

 先を読んでいきますか。

<2330>「泥時、始」

 あたしの身体を手向けに、

 そして置く、、

 あたしの身体は手向け、

 そして花々、、

 身体が転回して、

 宇宙のある一点を指す姿、、

 ビルシャナ という音、

 身体にたくわえる音、、

 私が生える、

 世界が運ばれてくる、、

 もののなかに、音を立てる、

 私が生まれてくる、、

 声は泡になる・・・

 あたしはボタンの、そのしんとした雰囲気にさわる、、

 転がる、、

 あ、

 時刻のような風情の、

 あなたがそこにいて、、

 身体は連なる、、

 花々しく、

 花々しく、

 花々しく・・・

<2329>「身体を選び、中に垂らす」

 ただの肌の、

 暗い時刻へと、

 順に順に、案内するような場所、

 私は見てる、

 身体からいくつもの、、

 その言葉の流れの、

 私のさまよいの、、

 物事が次々に出てくる、、

 私は言う、、

 物が全部違う、

 物は確かなのに、、

 物は全部違う、、

 ここに身体を集めて、、

 そのように言う、

 ほら、

 一量の勢い、、

 身体のなかの膜の、

 ただひたすらな声、、

 

 ただひたすらな声の、、

 二時の、

 その招び方、

 私はそれを見る、、

 見る、流す、、

 身体などどこへもあり、、

 増え得、、

 盛り上がる、

 先へ繋がる、、

 今のその呼吸に、、

 付き合うことが可能になる、、

 なにから来て、、

 なにを畳む、、

 その持ってきた、

 極小粒の中に、、

 今、持っているものを畳む、、

 ここにしか、、

 途方もない呼吸のひろがりは、ないからだ、、

 ここにしか、、

 時刻がうんと盛り上がる物事は、、

 私は身体を選んだ、

 身体を作ったのではない、

 身体を選んだ、

 つまり、ここから進むことを、、

 

 不確かなもの、

 行方の知れぬもの、、

 ぎこちないもの、

 そういうものから、

 脱しようとはせないで、、

 そこに身体の当たり前を置く、、

 私は生まれたはずだから、

 そのなかに仕草を、置いたはずだから、、

 そこでは何ものもくさり、なんともいえない、、

 いい匂いが、

 私を目覚めさせ、、

 道へ垂れさせる・・・